そもそもチャペル福音館は代表の私・廣畑涙嘉がLGBTの当事者であり、宗教の世界の中で、ずっと差別と闘ってきた人間です。
聖書の特定箇所には、同性間の性行為を罪と捉えられる記述があると主張するキリスト教の人たちもいます。その人たちが主張の拠り所としている聖書の箇所は、旧約聖書の創世記19章(ソドムとゴモラの滅亡)、レビ記18章22節(女と寝るように男と寝てはならない)、ローマの信徒への手紙1章26節~27節、コリントの信徒への手紙第一の6章9節~10節などがあります。
一方で、性指向や性自認は神の創造の多様性であるとする考えもあります。この考え方は聖書自体が歴史的・文化的な背景を踏まえた解釈で読まれなければならないという根拠に基づいたものです。これら挙げた聖書箇所が同性愛を否定的に描いていることに対し、同性愛を自然な性的指向の一つと捉える現代社会の理解とは相容れないため、批判や再解釈を求めるというものです。
しかし聖書自体が、「同性同士の誠実な愛という形」で、同性愛を否定しているか?ということには私は強く疑問を抱きます。創世記19章は「暴力の一つとして同性をなぶりものにする」ということですし、レビ記18章22節は一般常識のことと同じように、例えば「人の妻と寝る」とか、「自分の子を火の中を通らせる」とか、挙げ句の果ては「獣姦」と同列に「女と寝るように男と寝てはならない」とか、どう考えても「同性同士の誠実な愛という形」とは異なります。ローマの信徒への手紙1章26節~27節には「情欲」や「恥ずべきこと」として、「性の乱れ」を忠告したものですし、コリントの信徒への手紙第一の6章9節~10節は「男娼」「男色」をするものへの批判です(職業的な、また文化的な主従関係)。これらは一般常識の目を持って読むならば、「同性同士の誠実な愛という形」とは明らかに異にするものですし、聖書は同性愛を否定しているとは言えないのです。聖書をよく読めば、聖書自体は「同性同士の誠実な愛という形」を否定していないのは理解できるはずです。
それに私はトランスセクシュアルの当事者ですが、LGBTの概念の内で特に「T」は「性同一性」を表す言葉として20世紀後半に広まった新しい言葉であり、聖書に登場する言葉ではありません。
それでは仏教ではLGBTをどう考えるか?と言うと、仏教にはLGBTに対する統一的な見解はありませんが、多くの宗派では「人は皆、仏になれる仏性を持っている」という考えに基づき、個人の尊厳を尊重します。お大師様の教えでは「即身成仏」などの思想に見えるように全ての人を平等に、分け隔てなく慈しむ考えを持っていたと解釈できます。お大師様の御著「即身成仏義」には人間を含む一切の生きとし生けるものが、平等にこの身このままで速やかに仏になることが可能であると説かれています。それは「一切衆生悉有仏性」という言葉が良く表現しています。
しかし、仏教の教えにはそもそも性差別がないのにも関わらず、日本に伝来してから檀家制度の導入、戒名の差別、家制度の影響など歴史的・文化的な背景の中で性別による差別が生じ、元来の釈尊の「身分や性別に関わらず誰でも悟りに達することができる」とする教えから大いに離れてしまったというのが現状で、反省すべき点です。
これらの点からチャペル福音館は現にキリスト教にしろ、仏教にしろ差別されている人が存在し、傷つく人がいると言うことからイエスの福音の原点である「愛」、釈尊の教えの原点である「慈悲」に帰ってLGBTの人達も差別され続けてきた、傷つけられてきた人達として捉え、その人達にキリスト者として、仏教者として寄り添い、連帯するという立場であります。チャペル福音館はそういう場であり続けることを宣言致します。