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私の好きな聖人にアッシジの聖フランチェスコがいる。フランチェスコは1181年から1226年まで生きたが、裕福な商人の息子として育つた後、十字軍に行き、騎士を目指すが、戦争での捕虜経験や病気を経て世俗的な富や地位を一切捨て、清貧に生きた回心をする。
フランチェスコは当時ライ病(現在は差別用語とされている)と言って差別されていたハンセン病患者の真っ只中に入り、一緒に生活する。フランチェスコは司祭になる道を選ばず、托鉢修道士として一生を過ごす。これが後のフランシスコ会である。聖フランチェスコは死の直前に、両手・両足・脇腹に聖痕が現れたと伝えられている。
フランチェスコは仏教徒にも愛されているが、その理由には彼の思想や生き方が仏教の教えと共通する部分があるからである。特に清貧、慈悲、自然への愛といった点が仏教徒の共感を呼んでいる。
まず「清貧」であるが、聖フランチェスコは財産を一切持たず、質素な生活を送ることを実践した。これは仏教における「無所有」の教えに通じるものがある。
次に「慈悲」だが聖フランチェスコは動物を含むあらゆる生きとし生けるものに対して、深い慈悲の心を抱き、動物たちを兄弟姉妹として扱っている。この慈悲の精神は仏教の「慈悲」の教えと共通している。
次いで自然への愛であるが、聖フランチェスコは自然を神の創造物として敬い、その美しさを愛した。この自然観は仏教における「縁起」の思想や自然を尊ぶ心と共通している。
そして聖フランチェスコの実践的な行動であるが、聖フランチェスコは言葉だけではなく、実践を通してその思想を体現した。これは仏教が理論も大切にするが、その理論に基づいて実践を重視する点と共通している。フランチェスコは「裸のキリストに裸で従う」を実践したのである。これらの共通点から仏教徒は聖フランチェスコの生き方や思想に共感し、親しみを感じている。
最後に聖フランチェスコの平和の祈りで締めくくる。「主」とは、イエス・キリストでもブッダでもよい。
「主よ、わたしを平和の道具とならせて下さい。
憎しみがある所に愛を
争いがある所に赦しを
分裂がある所に信仰を
誤りのある所に真理を
絶望がある所に希望を
闇ある所に光を
悲しみある所に喜びを
ああ主よ慰められるよりも慰める者として下さい。
理解されるよりも理解する者に
それはわたしたちが自ら与えることによって受け
許すことによって赦され
自分のからだをささげて死ぬことによって、とこしえのいのちを得ることができるからです」